グリーンおじさん雑記帳

VRChatでの日々やVRまわりのことに関するメモなど。

かわいいおじさんと出会える儚い現実

1.はじめに

VRChat(以下、VRC)において私の周囲のプレイヤーたちのほとんどは生物学的な性別としては男性の方がほとんどです。私は基底現実においては男性をかわいい*1と思うことはほとんどありません。しかし、VRC内で会ったらかわいいと思う相手は多くいます*2。VRC内で彼らに「かわいい」と言うと「残念、中身はおじさんでした!」とか「アバターがかわいいだけなので」と返してきますが、私は単にアバターがかわいい以上のなにかを感じているという実感があります。今回はそのことについて考えてみたいと思います。以下、「私」と「かわいいアバターをまとった相手」の話として進めていきます。出てくる仮説について検証はしていません。たぶん、今後もすることはないでしょう。「VRCプレイヤー」とか「VRC日本人界隈」といった括りの話として、こうである・こうであるべきだという主張ではないです。いつも通りの私の日記のようなものです。

2.なぜ単にアバターがかわいい以上のなにかを感じるのか

VRC内で会う相手から、単にアバターがかわいい以上のなにか、例えば声をかわいいと思うとか性格をかわいいと思うとか、そういうことを声単体・性格単体で取り出した時よりも私は感じられることが多いです。それはなぜなのか。幾つか仮説を考えてみました。これらは排他的なものではなく、同時に成立し得ます。

(1)私の知覚における感覚の相互作用の結果が基底現実とVRで異なるから

「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ」という究極の選択があります。どちらも食べたくないものですが。これを改変して「カレー味でカレーの見た目のカレーとカレー味でうんこの見た目のカレー」のどちらを美味しく食べられるかと問うならば、私なら「カレー味でカレーの見た目のカレー」の方が美味しく食べられそうだと思っています。視覚と味覚は別々のものですが、視覚・味覚・その他の感覚の相互作用により私は「カレー」を知覚するのだと思います。

それと同じようにかわいいアバターをまとったおじさんと会話すると、そこから発される声やしぐさを含めて、「かわいいアバターをまとったおじさん」をかわいいと感じることがあるのではないかと考えています。

私たちが外界あるいは身体の状態をどのように捉えているかに少し注意してみると、ある対象が知覚された時の意識内容は複数のモダリティからの情報が統合されたものであることがわかる。知覚されているのは通常あくまで統一的な「対象」や「環境」であり、それらのうちから視覚情報だけ、聴覚情報だけを区別して知覚することはほとんどない。モダリティ間相互作用は一般に相補的であり、したがって、最終的な外界の知覚の特性は、モダリティ毎の特性の単純な加算では明らかにできず、モダリティ間の相互作用そのものについて検討する必要がある。

(日本バーチャルリアリティ学会編『バーチャルリアリティ学』(特定非営利活動法人日本バーチャルリアリティ学会、2011年)59ページ)

バーチャルリアリティ学

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ここまできて、「結局、アバターがかわいいだけという話なのでは?」という「1.はじめに」で否定して見せた話に戻ってしまうような気がします。この問いかけは、暗黙のうちに「相手そのもの」と「かわいい見た目」は切り離すことができるという前提が置かれていることを想定していました*3。ですが、私は誰かを認識する時に、絶対的な「相手そのもの」というものはなくて、上の引用にある「モダリティ間の相互作用そのもの」とそれに類するもの*4により相手を認識していると考えています。私の知識・経験も相手の認識の仕方に影響を与えると考えると、「1.はじめに」で書いた「かわいい」と言った時の「残念、中身はおじさんでした!」という相手の反応については私の知識・経験・それによって構築された考え方次第では「おじさんであること」が相手のかわいさに対してプラスに働くこともマイナスに働くこともありそうです。例えば、何の変哲もないカレーを食べる時に「それはカレーです」と言われて食べるのと「それはうんこです」と言われて食べるのとでは恐らく「カレーを食べる」という体験に差異が出るであろうと私は考えています。それは「カレー」という情報と「うんこ」という情報について私が異なる捉え方をしているからです。

(2)かわいいアバターの成人男性ばかり居る環境においては感じ方の基準点が変わるから

これは下條信輔『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書、1999年)を読み返して思った感想で、世界を識別し適応するためにゼロ点をずらし続けた結果として、例えば最初のうちは30分で酷く酔っていたけど数カ月後には何時間やっても酔わなくなったり(さかさめがねの例と似ている)、VRChatでごく普通の男声もかわいいと思えるようになってきたりするのではないかと考えました。

色覚システムは順応することによって、より赤の方向に「ゼロ点」をずらします。つまり視覚系は、視野の中の大多数の色がゼロ点近傍になるように、ゼロ点の位置そのものを調節したのです。この結果、知覚的にはより赤いものがむしろ白(または灰色)っぽく見えだしますが、これによって再び、世界の大多数の事物が中央付近、つまり視覚系のもっとも弁別力の優れた範囲に入ってきます。もし順応が完全なら、視覚系は全体として、世界が赤色に変容する以前と同程度の識別力を発揮できることになるわけです。

下條信輔『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書、1999年)27ページ

 ここでは視覚を中心とする感覚系の順応を取り上げましたが、これは感覚系だけの話にとどまらないのかもしれません。より一般的な生活場面で私たちが使う「順応」ということば、より社会的な場面での「順応」にも、同じような意味があるのかもしれません。

下條信輔『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書、1999年)36ページ

私はいまVRCではアバター:かわいい、音声:成人男性という人たちに囲まれて過ごしているので、そこに順応(ゼロ点をずらす)した結果として基底現実とは異なった基準で声・しぐさを「かわいい」と感じているとすれば、今後私が別の環境に長く居れば別の感じ方をするようになるかもしれません。

(3)かわいいアバターの影響で実際に相手の声やしぐさが変わるから

私だけではなく相手にもかわいい見た目のアバターは影響を与えることはあると思います。私の経験として、かわいいアバターをまとった時に、鏡の前でかわいいポーズをとってみたり、話し方もかわいい方向に引っ張られるということがありました。私の場合は、VRCで遊ぶことに慣れるにつれて、声やしぐさは変容前に戻っていきましたが、基底現実の姿に縛られて、声やしぐさをかわいくすることに意識的・無意識的に魅力を持ちつつも抵抗を感じていた人が、そのくびきから脱して自由にかわいく振る舞えるようになるということは身の回りを見る限りはよくありそうなことです。

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個人的に受付嬢さんを使った時にかわいいに引っ張られがち。

3.儚い現実としてのVR

私は基底現実もVRもどちらも現実だと考えています。ですが、どちらの方が儚いかと言えば、VRの方だろうと考えています。2(1)に挙げた「私の知覚における感覚の相互作用の結果が基底現実とVRで異なるから」で述べたことは相手のアバターが重要な要素であり、これが変わった後の他の要素との組み合わせの上に出現する「その人」のことはそれ以前にいた「その人」とは異なるものとして私は認識するかもしれません。2(2)に挙げた「かわいいアバターの成人男性ばかり居る環境においては感じ方の基準点が変わるから」で述べたことは私が普段過ごす環境を別の所にしてしまえば変わってしまうかもしれません。これを儚いと最初に表現しましたが、言い換えれば物理的な肉体に一つの人格のみ認めるということから解放されやすい世界でもあり、それは私の生きる希望のひとつになり得ると考えています。

*1:かわいいとは何なのか、という方向に脱線したくなりますが、私の手に負える議論ではないと思いますので、その方向には今のところ議論を進めません。

*2:かわいいとは別のカテゴリに入ると思う相手も多くいます。本稿ではその人たちについては述べません。

*3:私の経験上はこういう話をされる時にそういう前提を置かれているなと思うことが多かったです。

*4:感覚だけではなく、私の中の知識・経験によっても左右されるという意味で。