アスタリスクのイトを読んで
「アスタリスクの花言葉」のおまけコンテンツ、「アスタリスクのイト」を読んだ私のひとこと感想です。「アスタリスクのイト」がどこにあるかはここには書けませんが、「アスタリスクの花言葉」を終えた方ならきっとすぐわかるでしょう。
#アスタリスクの花言葉 のおまけコンテンツ #アスタリスクのイト をワールド外のしかるべき場所で公開しました。正規ルートでクリアされた方は配布場所をわりとすぐに見つけられると思いますが、これ自体は謎解きではないので見つけられない場合はご連絡ください。 pic.twitter.com/nP1FDFyCMS
— ヨツミフレーム@「アスタリスクのイト」公開 (@y23586) 2019年12月29日
これ以降、「アスタリスクの花言葉」のネタバレを含む話となります。
最初にひとこと感想と書いた通り、さくさく書いていきますね。
まとまりとか結論みたいなものは特になく、引き出された考えを中心に。どんどん脱線・自分語りしますが、当ブログは基本的に私のメモ帳なので許してください。
- バーチャル座禅
アスタちゃんのVR睡眠のスタイルは確かに、自分ひとりしかいないインスタンスで己自身と向き合うという形であり、バーチャル座禅とも言えるものだと思いました。ここを読んでから少し上の「VRChatのワールドにおける「空」という要素」という言葉を見ると「あれ?仏教の本を読んでたのかな?」という気持ちになりますね。ヨツミさんの作品には本質という言葉が時々出てきますが、禅と本質といえば、井筒俊彦『意識と本質』では本質に関する2つの大きな考え方の1つに禅の考え方が挙げられています。
以下の引用は9年ほど前の私の『意識と本質』感想文より。
意識に現れる物事について、その物事をそれたらしめる「本質」はあるのか、ないのか。ここで大きく二つの考えに分かれる。一つは、「本質」非実在論で、もう一つは「本質」実在論だ。前者の代表格は禅であって、「本質」の介入を許さない無分節と分節との同時現成を説く。後者はさらに三つの型に分かれる。第一の型は中国宋代の理学に代表される普遍的「本質」の実在を信じる考え方。第二の型は密教やユダヤ教神秘主義カッバーラーに代表される「元型」(アーキタイプ)的「本質」の実在を信じる考え方。第三の型はイデア論や正名論に代表される普遍的「本質」の外的実在性を信じる考え方。
この本質という言葉は、VR(バーチャルリアリティ)とは何かを語る時に欠かせないキーワードで、VR技術者認定試験の教科書であった『バーチャルリアリティ学』には以下のように書かれています。
バーチャルは、「表層的にはそうではないが、本質的はそうである」という意味である。たとえば、『米国継承英語辞典(The American Heritage Dictionary)』の第3版では、バーチャルとは、「Existing in essence or effect though not in actual fact or form」と定義されている。つまり、「みかけや形はそのものではないが、本質あるいは効果としてはそのものであること」である。
- 現実・仮想・本質という言葉
既に「本質」という言葉には言及しましたが、「現実」や「仮想」についてもVRをやればやるほどわからなくなってくる気がします。VR関連の話を聞いたり読んだりする時、その話の文脈における「現実」「仮想」「本質」という言葉の意味は何なのか……とずっと頭の片隅で考え続けています。 - 指輪と喪失感
フレンドが左手薬指に指輪を付けていて、その指輪でつながっている誰かを自分は知らない時、私も喪失感を覚えることがあります。私のヨツミさんへの姿勢は「遠くからそっと見守る」なので、そもそも知る由もないのですが、最初に見かけたときはちょっとショックでしたね。
指輪に限らず、自分の所属していない団体のバッジを付けてたり、知らない人たちと遊んでたり、というのを見てもちょっとした喪失感を感じることはあって、ただ、私はそういう喪失感は基本面白がるというか、世界の広さを感じられて好きな感覚でもあります。時系列的にはまず「ショック~」がきて次に「おもしろ~」という感じです。 - VR結婚という文化
私の観測範囲ではVRC内でカップル成立するのを「お砂糖」(発端は知りませんが、カップル→甘い恋→お砂糖、みたいな連想はすぐに思いつきますね)と呼ぶことが多いと思います。そしてその関係が特別な友人、恋人、配偶者などのどれなのかは当人たちの報告(所謂「お砂糖報告」)でわかることがよくあります。
その文化を何と呼ぶべきかはここで話したいことではないので措いておくとして、VRC内で恋愛的な関係に至るまでの人間の感じ方・考え方の変化や恋愛的な関係に至った後の人間の感じ方・考え方の変化、そしてそういう文化がある人間社会はどうなっていくのか、ということについては興味深いものだと私も考えています。また、これはVR結婚に限った話ではないですが、同時に、変わらないものは何なのかを確認することで、人間の本質(というものが仮にあるとして)に迫ることができるのではないかとも考えています。
感情は生もので後から振り返っても当時の感情はわからなくなってしまいがちだし、VRCで初めて経験した感情だとすればなおさらそうだと思っているので、VRC内で恋愛をしている人たちはまずはローカルPC上でも構わないので日記をつける習慣を付けて、後々語り継げるようにしておいてもらえると助かるな……と個人的に思っています。 - VR技術によってどこからでも帰れる場所があること(物理的距離からの解放)
住みなれない場所で長く暮らさなければならない時に臨場感を伴って帰ることができる場所を得ることができつつあるというのはひとつの救いだと考えています。ヨツミさんのように海外で仕事をせざるを得ないという場合だけではなく、災害などで故郷を失ったり、難病で病院から出ることができなくなったりした場合であっても、バーチャル世界に帰る場所があればどれだけ救われるだろうかと思います。いまさら家庭とか地域社会を再建するよりは、そちらの方に救いを求めたいと私は考えています。 - インターネット上の死
ヨツミさんの言う「現実世界の死」と「インターネット上の死」は何が違うのかということを考えていました。死ぬ当事者からすれば前者は肉体の死であり、後者は「分人の死」とでも言うべきものかもしれません。非当事者からすれば、「死」を「その人との永遠の別れ」と捉えてみると、それほど違わないように思います。また、ひとつ上で家庭とか地域社会という言葉を出しましたが、それらが力を失っていく世の中では、基底現実での友人・知人であっても知らないうちに孤独死してしまって全然連絡がつかなくなって終わるということもあると思います。ただ、インターネット上の死は「なんとなく」で起こりがちだとは思います。インターネットの人格の命は現実世界の命に比べてとても儚いものです。
私のフレンドの中にもいつの間にかインターネット上の死を迎えてしまったのではないかと思われる人たちがいます。私(VRCユーザのNakaYoshikawa)もいずれインターネット上の死を迎えるでしょう。今のところ私はしぶとく長生きしてやるつもりですが、将来の私のモチベーションはわからないですし、インターネットをできないほどの怪我をするかもしれません。それ(私がVRCユーザとして死ぬ時のこと)は昨年(2018年)から考えていることで、いつか私が二度とログインしなくなったVRCで私のことを覚えている人がいてくれたら墓参りをしてもらおうと思って自分の霊廟ワールドを作っています。まだまだ建設途中ですけど。 - 45分のあいだ集中して「生放送」を見続けなくてはならなかった地獄
楽しかったけど、「ヒントがあるかもしれない」と緊張感を維持しながらの45分はたしかに地獄でしたw
以上、「ひとこと」って何だっけ?という量になってしまいましたが、「アスタリスクのイト」の感想でした。