グリーンおじさん雑記帳

VRChatでの日々やVRまわりのことに関するメモなど。

VRCに対する様々な姿勢

1.はじめに

VRChat(以下、VRC)内あるいはVRC用のTwitterアカウントにおいて、プレイヤー同士のVRCに対する姿勢の差異によって生じる悲喜劇を私はこれまで観測してきました。これは構造としてはVRC特有の話ではなく、VR特有の話でもなく、人間社会において各個人それぞれが固有の価値観を持ち、その価値観に基づいて日々の出来事に対してそれぞれ異なった評価を下しており、その評価に基づいた行動を行う結果として様々なすれ違いが起きるという昔からある話だと私は考えています。その構造はバーチャルではない現実においても仕事への姿勢や恋愛への姿勢で現れてくると考えています。ただ、VRCにおいては常識的な価値観が構築されていく途上にあるので、基底現実よりもすれ違いの度合いは大きくなりがちかもしれないと考えています。私は本稿では、上述した構造においてVRCに関しては具体的にどのような価値観の違いがあり、私はそのうちどの価値観に近い立ち位置に居るかを述べていきます。

今回も基本的には私がどう考えているかを述べているだけであり、日記のようなものです。他のVRCプレイヤーが実際にこのように考えているかどうかは、わかりません。

2.バーチャルリアリティに対する姿勢

VRCにおける価値観の違いを考える時、VRに対する姿勢の話とVRChatというソーシャルVRプラットフォームに対する姿勢の話を分けてした方がわかりやすいと考えるので、最初にVRに対する姿勢の話をしていきます。

まずはいつものこれです。

バーチャルは、「表層的にはそうではないが、本質的はそうである」という意味である。たとえば、『米国継承英語辞典(The American Heritage Dictionary)』の第3版では、バーチャルとは、「Existing in essence or effect though not in actual fact or form」と定義されている。つまり、「みかけや形はそのものではないが、本質あるいは効果としてはそのものであること」である。

(日本バーチャルリアリティ学会編『バーチャルリアリティ学』(特定非営利活動法人日本バーチャルリアリティ学会、2011年)2ページ) 

バーチャルリアリティ学

バーチャルリアリティ学

  • 発売日: 2010/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

「VRChatのオフ会をするということ」で「だんだんとVRの世界と基底現実の世界の差について「全然別ものの世界」(VRの世界は夢の世界)と感じていたところから「同じ世界を別の視点*1を通じてみている」と感じるようになってきたという感覚の変化がある」と述べました。「全然別ものの世界」としてVRを捉える姿勢と「同じ世界を別の視点を通じてみている」としてVRを捉える姿勢のどちら側に立っているかでVRに関する価値観が変わってくると考えています。VRが「別の現実」であることに重きを置くか、「別の視点」であることに重きを置くか、の違いです。前者であれば、基底現実における属性(年齢、性別、職業など)をVRの中で聞くのは野暮なことであり、オフ会をするのはあり得ない、となりそうです。もちろん、後者だからといって、ぶしつけに相手の素性を聞くものではないとは思いますが、しかるべき手順を踏んで聞くことは問題ないのではないでしょうか。図1に前者のイメージを、図2に後者のイメージを描いてみました。

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図1、図2

私はVRCを始める時は図1のイメージで、そこからだんだん図2のイメージに近づいていきました。ただ、だからといって図1のイメージが完全になくなってしまうことも無いのではないかと考えています。時と場合によって、どちらのイメージがより濃くなるかの違いがあるのだと思います。例えば、私は自分が主催する1989年以前爆誕会に参加する時は図2の方をより濃く感じており、スイカさんの主催するカオス集会*2に参加する時は図1の方がより濃く感じています。

3.VRChatというソーシャルVRプラットフォームに対する姿勢

「VRCはゲームか?」という問いが発せられているところを私は何度か見たことがあります。Weblioで「ゲーム」の項目を見ると「(勝ち負けをあらそう)遊び。遊技。」(出典:三省堂大辞林)とあります。これに該当するのはVRC全体ではなくVRCの中でも主に「ゲームワールド」と呼ばれるワールドでの遊びではないでしょうか。だからVRCはゲームではない、と言いたくなるかもしれませんが、私たちが普段「ゲーム」と言う時には単に「遊び」のイメージで言うことも多いのではないでしょうか。少なくとも私の感覚としてはそうなので、「勝ち負けをあらそう」というところは一旦無視して、今度は「VRCは遊びか?」という問いに変えて考えてみたいと思います。Weblioで「遊ぶ」の項目を見ると「仕事や勉強をせず、遊戯などをして楽しく時を過ごす。」(出典:三省堂大辞林)とあります。ここまで述べてきたことを踏まえると、私の場合は、「VRCは遊びか?」への回答はYesであり、冒頭の「VRCはゲームか?」への回答もYesとなると考えています。一方で、3月7日のNHK「テンゴちゃん」で取り上げられた「アバターワーク」のようにVRCで仕事をしている人たちもいるし、「遊び」にとどまらない人間関係を構築している人たちもいます。

www.nhk.or.jp私もVRCで仕事はしてないですが、VRCでの遊びを通じて構築してきた人間関係の中でも親密な一部はもう単なる「遊び」だけの関係ではないと考えており、「VRCはゲームでしかないのか?」という問いに対する回答はNoになるでしょう。以下に示した図3の構図から徐々に図4になりつつあるのかなと考えています*3。私の周囲の人たちも似たような経過をたどりがちのように思います。

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図3、図4

「2.バーチャルリアリティに対する姿勢」の図1で「現実とVRは別の世界である」という認識の仕方を示しましたが、それと似た構図として「現実」としての仕事や勉強と「現実逃避」*4としてのゲームは別ものであるという認識の仕方を考えることができます。仮に図2のように「現実とVRは同じ世界の別の視点である」という認識の仕方をしている人であっても、図3のように「VRCはゲームでしかない」という認識の仕方をしていれば結果としてVRCに対して抱く価値観は図1の認識の仕方をしている人に似て、「ゲームの中で現実の話なんかするな」となるかもしれません。

4.どの姿勢も一人の人間が同時に持つことができる

VRCに対する姿勢について、最初にバーチャルリアリティに対する姿勢を大きく2つに分け、次にVRChatというソーシャルVRプラットフォームに対する姿勢も大きく2つに分けて、それらの姿勢の違いによるVRCへの態度の差異について述べてきました。これらは4つとも一人の人間が同時に持つことができる姿勢だと私は考えています。

「分人」という考え方があります。私の知る限りでは、平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書、2012年)で提唱された考え方で、私はまだそれをちゃんと読んだことがない*5のですが、Webで試し読みで読むことのできる6ページ目から引用します。

すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
 そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

  分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。

分人ごとに先に挙げたバーチャルリアリティに対する姿勢とVRChatというソーシャルVRプラットフォームに対する姿勢が異なることはあり得ると私は考えています。

5.おわりに

プレイヤー同士のVRCに対する姿勢の差異によって生じる悲劇を避けたり軽減したりする*6には、自分のVRCに対する姿勢を相手も持ち合わせていることを当然と思わずに、言語・非言語での対話を通じて相手のことを理解し、自分も相手も蔑ろにしない付き合い方をしていく必要があると考えています。これはVRCに限った話ではなくVRCと書いた部分を他の単語に置き換えても言えることではありますが、「1.はじめに」で述べた通り、VRCにおいては常識的な価値観が構築されていく途上にあるので、より注意深くなる必要があると考えています。

*1:Munechika Nishidaさんのツイート(https://twitter.com/mnishi41/status/1239783122956193792)にある「帯域」という言葉を使った方が良さそうな気がしてきましたが、今回はこのまま進めます。

*2:カオスな集会で、最終目的は「破壊」ただ一つです。

*3:「生活」対「遊び」のような構図も考えてみましたが、一旦これに落ち着きました。

*4:「逃避」という言葉に負の印象がつきがちなので、余計な議論を招かないよう他の言葉に言い換えた方がいいかもしれませんが、良い言葉が思いつかなかったので一旦このまま進めます。

*5:刊行時の立ち読みとか感想ブログとかでなんとなく「分人」の雰囲気を理解しているだけ。こうやって言及した以上、近々読んでみます。

*6:ある程度の「悲劇」はより重い「悲劇」を回避するためには避けられないコミュニケーションかもしれません。