グリーンおじさん雑記帳

VRChatでの日々やVRまわりのことに関するメモなど。

VRCに対する様々な姿勢

1.はじめに

VRChat(以下、VRC)内あるいはVRC用のTwitterアカウントにおいて、プレイヤー同士のVRCに対する姿勢の差異によって生じる悲喜劇を私はこれまで観測してきました。これは構造としてはVRC特有の話ではなく、VR特有の話でもなく、人間社会において各個人それぞれが固有の価値観を持ち、その価値観に基づいて日々の出来事に対してそれぞれ異なった評価を下しており、その評価に基づいた行動を行う結果として様々なすれ違いが起きるという昔からある話だと私は考えています。その構造はバーチャルではない現実においても仕事への姿勢や恋愛への姿勢で現れてくると考えています。ただ、VRCにおいては常識的な価値観が構築されていく途上にあるので、基底現実よりもすれ違いの度合いは大きくなりがちかもしれないと考えています。私は本稿では、上述した構造においてVRCに関しては具体的にどのような価値観の違いがあり、私はそのうちどの価値観に近い立ち位置に居るかを述べていきます。

今回も基本的には私がどう考えているかを述べているだけであり、日記のようなものです。他のVRCプレイヤーが実際にこのように考えているかどうかは、わかりません。

2.バーチャルリアリティに対する姿勢

VRCにおける価値観の違いを考える時、VRに対する姿勢の話とVRChatというソーシャルVRプラットフォームに対する姿勢の話を分けてした方がわかりやすいと考えるので、最初にVRに対する姿勢の話をしていきます。

まずはいつものこれです。

バーチャルは、「表層的にはそうではないが、本質的はそうである」という意味である。たとえば、『米国継承英語辞典(The American Heritage Dictionary)』の第3版では、バーチャルとは、「Existing in essence or effect though not in actual fact or form」と定義されている。つまり、「みかけや形はそのものではないが、本質あるいは効果としてはそのものであること」である。

(日本バーチャルリアリティ学会編『バーチャルリアリティ学』(特定非営利活動法人日本バーチャルリアリティ学会、2011年)2ページ) 

バーチャルリアリティ学

バーチャルリアリティ学

  • 発売日: 2010/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

「VRChatのオフ会をするということ」で「だんだんとVRの世界と基底現実の世界の差について「全然別ものの世界」(VRの世界は夢の世界)と感じていたところから「同じ世界を別の視点*1を通じてみている」と感じるようになってきたという感覚の変化がある」と述べました。「全然別ものの世界」としてVRを捉える姿勢と「同じ世界を別の視点を通じてみている」としてVRを捉える姿勢のどちら側に立っているかでVRに関する価値観が変わってくると考えています。VRが「別の現実」であることに重きを置くか、「別の視点」であることに重きを置くか、の違いです。前者であれば、基底現実における属性(年齢、性別、職業など)をVRの中で聞くのは野暮なことであり、オフ会をするのはあり得ない、となりそうです。もちろん、後者だからといって、ぶしつけに相手の素性を聞くものではないとは思いますが、しかるべき手順を踏んで聞くことは問題ないのではないでしょうか。図1に前者のイメージを、図2に後者のイメージを描いてみました。

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図1、図2

私はVRCを始める時は図1のイメージで、そこからだんだん図2のイメージに近づいていきました。ただ、だからといって図1のイメージが完全になくなってしまうことも無いのではないかと考えています。時と場合によって、どちらのイメージがより濃くなるかの違いがあるのだと思います。例えば、私は自分が主催する1989年以前爆誕会に参加する時は図2の方をより濃く感じており、スイカさんの主催するカオス集会*2に参加する時は図1の方がより濃く感じています。

3.VRChatというソーシャルVRプラットフォームに対する姿勢

「VRCはゲームか?」という問いが発せられているところを私は何度か見たことがあります。Weblioで「ゲーム」の項目を見ると「(勝ち負けをあらそう)遊び。遊技。」(出典:三省堂大辞林)とあります。これに該当するのはVRC全体ではなくVRCの中でも主に「ゲームワールド」と呼ばれるワールドでの遊びではないでしょうか。だからVRCはゲームではない、と言いたくなるかもしれませんが、私たちが普段「ゲーム」と言う時には単に「遊び」のイメージで言うことも多いのではないでしょうか。少なくとも私の感覚としてはそうなので、「勝ち負けをあらそう」というところは一旦無視して、今度は「VRCは遊びか?」という問いに変えて考えてみたいと思います。Weblioで「遊ぶ」の項目を見ると「仕事や勉強をせず、遊戯などをして楽しく時を過ごす。」(出典:三省堂大辞林)とあります。ここまで述べてきたことを踏まえると、私の場合は、「VRCは遊びか?」への回答はYesであり、冒頭の「VRCはゲームか?」への回答もYesとなると考えています。一方で、3月7日のNHK「テンゴちゃん」で取り上げられた「アバターワーク」のようにVRCで仕事をしている人たちもいるし、「遊び」にとどまらない人間関係を構築している人たちもいます。

www.nhk.or.jp私もVRCで仕事はしてないですが、VRCでの遊びを通じて構築してきた人間関係の中でも親密な一部はもう単なる「遊び」だけの関係ではないと考えており、「VRCはゲームでしかないのか?」という問いに対する回答はNoになるでしょう。以下に示した図3の構図から徐々に図4になりつつあるのかなと考えています*3。私の周囲の人たちも似たような経過をたどりがちのように思います。

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図3、図4

「2.バーチャルリアリティに対する姿勢」の図1で「現実とVRは別の世界である」という認識の仕方を示しましたが、それと似た構図として「現実」としての仕事や勉強と「現実逃避」*4としてのゲームは別ものであるという認識の仕方を考えることができます。仮に図2のように「現実とVRは同じ世界の別の視点である」という認識の仕方をしている人であっても、図3のように「VRCはゲームでしかない」という認識の仕方をしていれば結果としてVRCに対して抱く価値観は図1の認識の仕方をしている人に似て、「ゲームの中で現実の話なんかするな」となるかもしれません。

4.どの姿勢も一人の人間が同時に持つことができる

VRCに対する姿勢について、最初にバーチャルリアリティに対する姿勢を大きく2つに分け、次にVRChatというソーシャルVRプラットフォームに対する姿勢も大きく2つに分けて、それらの姿勢の違いによるVRCへの態度の差異について述べてきました。これらは4つとも一人の人間が同時に持つことができる姿勢だと私は考えています。

「分人」という考え方があります。私の知る限りでは、平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書、2012年)で提唱された考え方で、私はまだそれをちゃんと読んだことがない*5のですが、Webで試し読みで読むことのできる6ページ目から引用します。

すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
 そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

  分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。

分人ごとに先に挙げたバーチャルリアリティに対する姿勢とVRChatというソーシャルVRプラットフォームに対する姿勢が異なることはあり得ると私は考えています。

5.おわりに

プレイヤー同士のVRCに対する姿勢の差異によって生じる悲劇を避けたり軽減したりする*6には、自分のVRCに対する姿勢を相手も持ち合わせていることを当然と思わずに、言語・非言語での対話を通じて相手のことを理解し、自分も相手も蔑ろにしない付き合い方をしていく必要があると考えています。これはVRCに限った話ではなくVRCと書いた部分を他の単語に置き換えても言えることではありますが、「1.はじめに」で述べた通り、VRCにおいては常識的な価値観が構築されていく途上にあるので、より注意深くなる必要があると考えています。

*1:Munechika Nishidaさんのツイート(https://twitter.com/mnishi41/status/1239783122956193792)にある「帯域」という言葉を使った方が良さそうな気がしてきましたが、今回はこのまま進めます。

*2:カオスな集会で、最終目的は「破壊」ただ一つです。

*3:「生活」対「遊び」のような構図も考えてみましたが、一旦これに落ち着きました。

*4:「逃避」という言葉に負の印象がつきがちなので、余計な議論を招かないよう他の言葉に言い換えた方がいいかもしれませんが、良い言葉が思いつかなかったので一旦このまま進めます。

*5:刊行時の立ち読みとか感想ブログとかでなんとなく「分人」の雰囲気を理解しているだけ。こうやって言及した以上、近々読んでみます。

*6:ある程度の「悲劇」はより重い「悲劇」を回避するためには避けられないコミュニケーションかもしれません。

かわいいおじさんと出会える儚い現実

1.はじめに

VRChat(以下、VRC)において私の周囲のプレイヤーたちのほとんどは生物学的な性別としては男性の方がほとんどです。私は基底現実においては男性をかわいい*1と思うことはほとんどありません。しかし、VRC内で会ったらかわいいと思う相手は多くいます*2。VRC内で彼らに「かわいい」と言うと「残念、中身はおじさんでした!」とか「アバターがかわいいだけなので」と返してきますが、私は単にアバターがかわいい以上のなにかを感じているという実感があります。今回はそのことについて考えてみたいと思います。以下、「私」と「かわいいアバターをまとった相手」の話として進めていきます。出てくる仮説について検証はしていません。たぶん、今後もすることはないでしょう。「VRCプレイヤー」とか「VRC日本人界隈」といった括りの話として、こうである・こうであるべきだという主張ではないです。いつも通りの私の日記のようなものです。

2.なぜ単にアバターがかわいい以上のなにかを感じるのか

VRC内で会う相手から、単にアバターがかわいい以上のなにか、例えば声をかわいいと思うとか性格をかわいいと思うとか、そういうことを声単体・性格単体で取り出した時よりも私は感じられることが多いです。それはなぜなのか。幾つか仮説を考えてみました。これらは排他的なものではなく、同時に成立し得ます。

(1)私の知覚における感覚の相互作用の結果が基底現実とVRで異なるから

「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ」という究極の選択があります。どちらも食べたくないものですが。これを改変して「カレー味でカレーの見た目のカレーとカレー味でうんこの見た目のカレー」のどちらを美味しく食べられるかと問うならば、私なら「カレー味でカレーの見た目のカレー」の方が美味しく食べられそうだと思っています。視覚と味覚は別々のものですが、視覚・味覚・その他の感覚の相互作用により私は「カレー」を知覚するのだと思います。

それと同じようにかわいいアバターをまとったおじさんと会話すると、そこから発される声やしぐさを含めて、「かわいいアバターをまとったおじさん」をかわいいと感じることがあるのではないかと考えています。

私たちが外界あるいは身体の状態をどのように捉えているかに少し注意してみると、ある対象が知覚された時の意識内容は複数のモダリティからの情報が統合されたものであることがわかる。知覚されているのは通常あくまで統一的な「対象」や「環境」であり、それらのうちから視覚情報だけ、聴覚情報だけを区別して知覚することはほとんどない。モダリティ間相互作用は一般に相補的であり、したがって、最終的な外界の知覚の特性は、モダリティ毎の特性の単純な加算では明らかにできず、モダリティ間の相互作用そのものについて検討する必要がある。

(日本バーチャルリアリティ学会編『バーチャルリアリティ学』(特定非営利活動法人日本バーチャルリアリティ学会、2011年)59ページ)

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ここまできて、「結局、アバターがかわいいだけという話なのでは?」という「1.はじめに」で否定して見せた話に戻ってしまうような気がします。この問いかけは、暗黙のうちに「相手そのもの」と「かわいい見た目」は切り離すことができるという前提が置かれていることを想定していました*3。ですが、私は誰かを認識する時に、絶対的な「相手そのもの」というものはなくて、上の引用にある「モダリティ間の相互作用そのもの」とそれに類するもの*4により相手を認識していると考えています。私の知識・経験も相手の認識の仕方に影響を与えると考えると、「1.はじめに」で書いた「かわいい」と言った時の「残念、中身はおじさんでした!」という相手の反応については私の知識・経験・それによって構築された考え方次第では「おじさんであること」が相手のかわいさに対してプラスに働くこともマイナスに働くこともありそうです。例えば、何の変哲もないカレーを食べる時に「それはカレーです」と言われて食べるのと「それはうんこです」と言われて食べるのとでは恐らく「カレーを食べる」という体験に差異が出るであろうと私は考えています。それは「カレー」という情報と「うんこ」という情報について私が異なる捉え方をしているからです。

(2)かわいいアバターの成人男性ばかり居る環境においては感じ方の基準点が変わるから

これは下條信輔『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書、1999年)を読み返して思った感想で、世界を識別し適応するためにゼロ点をずらし続けた結果として、例えば最初のうちは30分で酷く酔っていたけど数カ月後には何時間やっても酔わなくなったり(さかさめがねの例と似ている)、VRChatでごく普通の男声もかわいいと思えるようになってきたりするのではないかと考えました。

色覚システムは順応することによって、より赤の方向に「ゼロ点」をずらします。つまり視覚系は、視野の中の大多数の色がゼロ点近傍になるように、ゼロ点の位置そのものを調節したのです。この結果、知覚的にはより赤いものがむしろ白(または灰色)っぽく見えだしますが、これによって再び、世界の大多数の事物が中央付近、つまり視覚系のもっとも弁別力の優れた範囲に入ってきます。もし順応が完全なら、視覚系は全体として、世界が赤色に変容する以前と同程度の識別力を発揮できることになるわけです。

下條信輔『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書、1999年)27ページ

 ここでは視覚を中心とする感覚系の順応を取り上げましたが、これは感覚系だけの話にとどまらないのかもしれません。より一般的な生活場面で私たちが使う「順応」ということば、より社会的な場面での「順応」にも、同じような意味があるのかもしれません。

下條信輔『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書、1999年)36ページ

私はいまVRCではアバター:かわいい、音声:成人男性という人たちに囲まれて過ごしているので、そこに順応(ゼロ点をずらす)した結果として基底現実とは異なった基準で声・しぐさを「かわいい」と感じているとすれば、今後私が別の環境に長く居れば別の感じ方をするようになるかもしれません。

(3)かわいいアバターの影響で実際に相手の声やしぐさが変わるから

私だけではなく相手にもかわいい見た目のアバターは影響を与えることはあると思います。私の経験として、かわいいアバターをまとった時に、鏡の前でかわいいポーズをとってみたり、話し方もかわいい方向に引っ張られるということがありました。私の場合は、VRCで遊ぶことに慣れるにつれて、声やしぐさは変容前に戻っていきましたが、基底現実の姿に縛られて、声やしぐさをかわいくすることに意識的・無意識的に魅力を持ちつつも抵抗を感じていた人が、そのくびきから脱して自由にかわいく振る舞えるようになるということは身の回りを見る限りはよくありそうなことです。

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個人的に受付嬢さんを使った時にかわいいに引っ張られがち。

3.儚い現実としてのVR

私は基底現実もVRもどちらも現実だと考えています。ですが、どちらの方が儚いかと言えば、VRの方だろうと考えています。2(1)に挙げた「私の知覚における感覚の相互作用の結果が基底現実とVRで異なるから」で述べたことは相手のアバターが重要な要素であり、これが変わった後の他の要素との組み合わせの上に出現する「その人」のことはそれ以前にいた「その人」とは異なるものとして私は認識するかもしれません。2(2)に挙げた「かわいいアバターの成人男性ばかり居る環境においては感じ方の基準点が変わるから」で述べたことは私が普段過ごす環境を別の所にしてしまえば変わってしまうかもしれません。これを儚いと最初に表現しましたが、言い換えれば物理的な肉体に一つの人格のみ認めるということから解放されやすい世界でもあり、それは私の生きる希望のひとつになり得ると考えています。

*1:かわいいとは何なのか、という方向に脱線したくなりますが、私の手に負える議論ではないと思いますので、その方向には今のところ議論を進めません。

*2:かわいいとは別のカテゴリに入ると思う相手も多くいます。本稿ではその人たちについては述べません。

*3:私の経験上はこういう話をされる時にそういう前提を置かれているなと思うことが多かったです。

*4:感覚だけではなく、私の中の知識・経験によっても左右されるという意味で。

VRC1989年以前爆誕会を始めて1年(やってみた感想編)

はじめに

前回同様、私に興味のある奇特な人くらいしか得をしなさそうな読み物です。これを読まなくても私の主催しているVRC1989年以前爆誕会(以下、爆誕会)に参加するにあたり全然困ることはないです。

前回の記事「なぜなに編」とわざわざ分けて書き始めてみたものの、この「やってみた感想編」はあまり書くことがなさそうだと思っています。私なりに得たものは多岐にわたるのですが、私にとって誰かに読んでもらおうと思うようなことって、実務的なことではなく、実務の背景にある思想であるためです*1。たぶん。

あと、前回書き忘れたことがあって、爆誕会は30代のためだけの会でもないということです。1989年以前なんだから1979年生まれだって1945年生まれだって大歓迎です。実際40代以上の方は何人もいらっしゃいます。既に1989年以前生まれというある種の野暮なことを問うているものの、必要以上にその野暮はしなくてよいと考えているので、私から年齢を聞くことはしないのですが話の流れでその方たちの年齢を知ることになりました。

1.思ったより大きな飲み会になった

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第26回定例飲み会の集合写真。隠れてしまった人も含めて32名。

最初に持っていた思いとしては、気のおけない仲間数名で定期的に飲む場ができればそれで良く、告知を出す以上は色んな人がくるかもしれないが定着する人はあまり多くないかもしれないと思っていました。それが今*2では毎回ピーク時のインスタンスの同時滞在人数が30名以上となりました。ありがたいことにリピーターの方が多いです*3。第2回飲み会の時は最初の10分くらい私がiwaSyncPlayerでR-TYPEの攻略動画を眺めながら一人で飲んでたのが嘘のようですね。そういえばいつの間にか「今回は誰も来ないかもしれない」と思うことがなくなりました。上述した最初の思いが基底にはあるので、いたずらに人数拡大を目指そうという路線で爆誕会を運営しているわけではないですが、初参加の方が「行ってみよう」、リピーターの方が「また行こう」と思ってくれたであろうことは嬉しく思います。

ただ、思ったより大きな飲み会になった結果として、少人数飲みの良さが失われていきました。そこで少人数のグループに分かれて会話をできるように会場を広くしたり隠れ家的な場所を幾つか作ってみたりして、自分がそこに滞在することで大人数に疲れた人が避難できるようにしました*4。そういう工夫はしていましたが、初期メンバとくに発起人3名の残り2名の大宮さん・くにやさんとはゆっくりお話しする時間を設けるために始めた会なのに、2次会以降じゃないとそれがやりづらくなってしまい申し訳なく思うと同時に、現在に至るまで付いてきてくれていてありがたく思います。

2.iwaSyncPlayer(動画再生機能)の功罪

爆誕会は動画鑑賞会ではないですが、iwaSyncPlayerの存在感が非常に大きな会ではあると考えています。爆誕会定例飲み会では鏡の前ではなくiwaSyncPlayerの前に人が集まります。

そもそもなぜiwaSyncPlayerをワールドに置いているかというと、私が話下手なので話のネタになりしかもその前でしばらく黙っていても不自然にはならない動画再生機能を重宝していたからです。20~30年前のゲームやアニソンの動画を流していると自然に懐かしトークが始まって楽しいし楽でした。居酒屋とかで懐かしい曲が流れてくるとその曲が好きだとかそれが主題歌になっていた作品の話とかその曲の同時代の社会や個人の出来事であるとか会話が展開していくことがあると思うのですが、そんな感じです。最初の頃の回では事実上、私にチャンネル権がありましたが、途中の回からは参加者に好きな動画を流してもらい私はそれを見ている形に変わりました。

動画の前に人が集まってそこでお喋りをする、それはそれで良いことだと思っていますが、そのことによってはカバーできないこともきっとあると思います。「なぜなに編」の記事内で「未来(終末)への不安を吐露したり過去の楽しかった思い出に浸ったりしたいという気持ち」にも寄り添っていきたいということを書きました。そのうち「過去の楽しかった思い出に浸る」部分は懐かしい動画を鑑賞しながらのお喋りでかなりの程度満たせるように思いますが、みんながずっと動画に釘付けという状態になってしまうと、「未来(終末)への不安を吐露する」部分はかなりやりづらいのではないかなと考えています。盛り上がっている中心部はありつつも、その周辺で少人数の落ち着いたグループも自然と共存できる場を作っていくということにはこれからも挑戦していきたいと考えています*5

3.孤独を愛するが孤立をしたいわけでもない人間への「創設者の勧め」

「自分はこう思う」で済ませておけばいいのに「勧め」なんて書いちゃって大丈夫かと思いもしますが、こんな文章を読みに来る人の中には私の同類も居るかもしれないと思ってこのまま書き続けます。

私は昔から、既に存在している組織・場の中でうまくやっていくということが苦手でした。仕事であれば明確な目的があって*6その達成のためになんとかやっていくこともできましたが、大学の既存のサークルとかSNSの既存のコミュニティでは仕事ほどの割り切りを自分に課すのもばかばかしいので好きなように孤独であった結果としてすっかり孤立してしまい、そこに居る意味を見出せなくなり脱退するということがよくありました。孤独だけど孤立していないというのは、自己の自由を他者に侵されないけども、他者との縁を感じることもできる、そんなふんわりとした話でここは進めさせてください*7

自分にとってちょうど良い温度感で孤独で居させてくれて同時に他者との縁を維持できる、そんな都合の良いポジションが私の人生においては「場の創設者」でした。大学の時は幾つものサークルを作り、インターネット歴20年くらいの中でも色々コミュニティを作ってきました。VRChat(以下、VRC)でもそうなりました。爆誕会は私にとって孤独と心地の良い喧騒の両立を与えてくれる場所になりました。

私と似たような人で、既存のコミュニティに違和感があるという方は、一度自分でコミュニティを立ち上げてみるのも良いかもしれません。

4.VRCを続ける最低限のモチベーションの維持をできた

2年近くVRCをやっていると、何度か飽きることはありました。私は「飽きてからが本番」という持論*8があるので一旦飽きること自体は良いのですが、その「本番」をしばらくやった結果として辞める*9というのもあり得る話ではあって、辞める結果にならなかったのは爆誕会定例飲み会を月2回開催していて繋がりを切らさなかったこと、また、自分で会場ワールドを作っているので自分の創造した世界に人が来ているのを見る楽しみを隔週で味わえたからだと思います。飲み会に最適な高品質なワールドが他に沢山ある中で拙い自作ワールドを致命的なミスをそっと指摘するだけで留めて文句を言わずに参加し続けてくださっている皆さんには感謝しています。

おわりに

爆誕会を始めて良かったと思っています。やってみた感想としては「みんなありがとう、これからもよろしく」で済むところを少し長めに書いてみました。

 

 

*1:万一、実務について私に聞きたいという人がいれば言ってもらえればお話します。

*2:2020/03/01現在

*3:ただし、これには面子の固定化という懸念もあります。それはそれで良しとするという判断も選択肢に含めつつ検討していきます。

*4:私自身が大人数の中に長時間居ると疲れるタイプなので第一には私のためです。

*5:無理に同じ2時間の中に併存させずに別途時間を設けるというのも手だとは思っています。試行錯誤していきます。

*6:私が具体的な仕事内容を知っている仕事の範囲内では、です。

*7:今夜中にこの記事を公開しちゃいたいという思いがあるので……。

*8:飽きたから辞めるというのは短絡的という話。

*9:もう二度とやらない、と決めるというよりは、当面の間、読書やVRC以外のスキル向上にリソースを割くのでインしない、という形で。

VRC1989年以前爆誕会を始めて1年(なぜなに編)

正確には始めてから1年と1ヶ月が経ちましたが、「VRC1989年以前爆誕会」(以下、爆誕会)という会をVRChat(以下、VRC)で主催しています。節目ということで、ちょっと振り返ってみようかなと思います。思ったより長くなってしまったので、「なぜなに編」ということで「なぜ爆誕会を始めたのか」と「爆誕会とは何なのか」で一旦区切ろうと思います。明日以降書く気持ちが残っていれば「やってみた感想編」的なタイトルで後編を書きます。

爆誕会参加者の方々及び今後参加しようと思っている方々へ:内容を読んで「こいつ面倒くさいこと言ってるなー」と思うかもしれませんが、私以外の爆誕会参加者の方々にはTwitterに載せている告知程度の理解しか求めませんので安心して読み飛ばしてください。

なぜ爆誕会を始めたのか

きっかけ

大宮さん(OOMIYA)、くにやさん(ID928)と2018年末頃に「VRCには思ったより若い人が多い。たまにはおじさんだけで飲む会をやりたいね」という風なことを話していて、一方で「せっかく若い人の方が多い世界に来たんだから、おじさん同士で固まっているのはもったいない」という思い*1や「VRの世界で基底現実の年齢を持ち出すのは野暮じゃないか」という思いがあり、しばらく躊躇していました。ですが、お二人に背中を押してもらって、第1回の開催に踏み切りました。今でも基本的な思いとしては先に挙げた2つの思いは私の中にありますが、「隔週開催2時間程度のイベント」をする分には年齢制限のあるイベントがあったって良いと考えています。

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爆誕会の最初の写真(左:くにやさん、右:大宮さん)

会の方針

なぜ爆誕会をやろうと思ったのかは、会の方針にも表れていると思うので、方針も見ていきましょう。Discordに2019/1/21から掲載している以下の文面通りですが、本稿では少し解説を加えたいと思います。

1.VRだけど非VRと同じように居酒屋で何人かで酒を飲みなながら、まったりと飲みたい。
 (そういう雰囲気でやりたいという話なのでお酒は必須ではないし、居酒屋ワールドでやるとも限らないよ!)
2.未来の話も過去の話もしたい。その中には世知辛い未来の話も帰りたい過去の話があってもいい。元気じゃなくてもいい。
3.ゆるやかに入退室できる形にしたい。
 (人が今後増えるかもなので、ユルさを確保しつつ、うまく回していくやり方は検討していきたい)
4.主催者であるNakaYoshikawaを中心にして上記1~3を達成しようとする時、有効そうなフィルタリングの一つとして上記「想定する参加者」を設定した。若者と距離をとりたいわけではない。

まず「1.VRだけど非VRと同じように居酒屋で何人かで酒を飲みなながら、まったりと飲みたい。」について。私は社交性はあまり高くないと自負していますが、気のおけない仲間と居酒屋で飲むのは好きで、それをVRCでもやりたいと思っていました。最初は居酒屋ワールドで開催していましたが、2つの理由によりあまり居酒屋感のないワールドで開催するに至っています。1つは爆誕会独自の情報を持たせたワールドを使いたいので私の自作ワールドを使っているが私に居酒屋感のあるワールドを作るスキルがないこと、もう1つは上記「気のおけない仲間と居酒屋で飲む」の文の中で「居酒屋」部分にはあまり拘る必要はないと考えているためです。とはいえ、いずれ爆誕会居酒屋ワールドを作ってみたいとは思っています。

次に「2.未来の話も過去の話もしたい。その中には世知辛い未来の話も帰りたい過去の話があってもいい。元気じゃなくてもいい。」について。「VRには無限の可能性がある!」的なノリも楽しくて好きなんですが、そういうノリでやっていくには一定の体力が要ると思っています。私の経験上の話ですが、加齢とともに身体の衰えや親しい人間の喪失の経験が増えていきますし、仕事や趣味では自分にとっての「あがり」(限界)が見えてきます。そんな中でも明るい未来を信じてやっていこうという気持ちと、未来(終末)への不安を吐露したり過去の楽しかった思い出に浸ったりしたいという気持ちは、私の中に共存していて、元気な時は前者の気持ちで頑張り、元気じゃない時は後者の気持ちで頑張らない、で良いのではないかと思っています。周囲を見渡した時、前者のためのイベントは他の人が供給してくれているように思ったので、私は後者の気持ちをもってVRCにログインした人も安心していられる場を供給したいと思いました。別に暗い話をする会をやりたいわけじゃないんですが、暗い話も気兼ねなくできる場にはしたいと思っています。

3点目として「3.ゆるやかに入退室できる形にしたい。」について。これはVRCのイベントは事実上だいたいそうだと思いますが、スッと入ってスッと出ていくのが苦にならない空間にできればと考えています。

最後に「4.主催者であるNakaYoshikawaを中心にして上記1~3を達成しようとする時、有効そうなフィルタリングの一つとして上記「想定する参加者」を設定した。若者と距離をとりたいわけではない。」について。想定する参加者というのは「自称1989年以前生まれのVRCプレイヤー」です。これは範囲広すぎるのではと自分でも時々思うんですが、今のところ、告知に前向きな言葉を多用しない、広報を大々的にやりすぎない*2、会の門戸に立っている私自身が会の雰囲気を体現している(?)、等の理由からか、結果的にはほど良い集まり具合になっていると思います。

今回この記事では「こうありたい」ということについて色々明文化していますが、私が一緒に居たいと思う人ほど「自分はひょっとしたら雰囲気を壊してしまうかも」と遠慮してしまいそうなので、告知では多くを語りすぎないようにしています。あれこれ書いても初見の人には何を言っているのかわからないのでできるだけシンプルな形で伝えたいというのもあります。本稿は9割自己満足で書いているので、そういう配慮はしていません。

爆誕会とは何なのか

昭和生まれのおじさんの会なのか

爆誕会は昭和生まれのおじさんの会なのか?」と問われれば、雑に答えれば「だいたいそんな感じ」なのですが、方針や告知の言葉に「昭和」も「おじさん」も入れていないのはたまたまではなく意図的なものなので今回は雑に答えるのではなく少し丁寧に答えてみようと思います。その場合、上記の問いへの最初の答えは「そう捉えても事実上は概ね合っていると思うが、会の理念としては必ずしもそうではない」ということになります。

昭和の会ではない

なぜ「昭和」ではないのか。単に1989年には昭和64年と平成元年が含まれるからと考えることもできますが、私の意図としては日本の元号に馴染みのない海外の方や何らかの信念により元号を使うことを良しとしない方も参加しやすいようにという思いがあります。では西暦なら同様の懸念が無いのかと言えば、あるのですが、国籍や政治信条ゆえに参加しづらい場合が少なそうなのは西暦であろうと思い、西暦表記にしています。

おじさんの会でも、おばさんの会でも、大人の会でもない

なぜ「おじさん」ではないのか。男性だけ参加資格があるように見えてしまうからという話もありますが、だから「おばさん」も併記すれば良いというものではありません。既に一度、本稿では「おじさん」という言葉を使っていますが、人となりがある程度わかっている相手と文脈を踏まえながら「おじさん」「おばさん」という言葉を使う分には問題ないと考えていますが、不特定多数に爆誕会の趣旨を説明しようとする時に「おじさん」「おばさん」という言葉は使いたくないと私は考えています。

その理由の1つ目は、それらの言葉がもつ侮蔑的な意味合いです。個人の自虐として使う分には有りだと思いますが、単にある年以前に生まれたというだけの人たちを私の自虐に巻き込むわけにはいきません。

理由の2つ目はそれらの言葉がもつ「大人」という意味合いです。告知で「大人の会です」的なことも言いたくないと考えています。年齢制限を設けることで基底現実において一定以上の人生経験がある方が集まる場になっているとは思いますが、門戸には制約を設ける一方で、門をくぐった後には基底現実で強いられている「大人」としての振る舞いは一旦忘れて過ごすことができれば良いと思いますし、また幸か不幸か*3、年輪は重ねてきたけども、所謂「年相応」の経験を積んでこなかった方に「年相応であれ」と強いるような場にはしたくないという思いもありました*4

なお、こうやって落ち着いて文章を書いている時は推敲しながら言葉の使い分けができるのですが、私は口頭での即時応答を求められるコミュニケーションはものすごく下手なので、「原則として参加者の自由に任せ、過保護をしない」ということを言いたいために「みんな大人なんだから」云々と言ってしまうことはあります*5

NakaYoshikawaを囲む会なのか

爆誕会は、私、NakaYoshikawaを囲む会なのか。

方針4に「主催者であるNakaYoshikawaを中心にして」という文言がある通り、一面においてこの答えははっきりと「Yes」となります。私はまず第一に私のために爆誕会を主催しています。だから今まで楽しく主催を続けられています。私の環境を整えた結果として、Discordサーバがあり、ワールドがあり、告知があり、参加してくれる方々が居ます。

しかし、別の一面から言えば「No」とも言えます。私は参加者の方々には私が何者かということを意識せずに過ごしてもらいたいと考えています。私のことを意識するのはJoinする時だけで、あとは私のことは放っておいて楽しく過ごしてもらえたら、私は幸せに思います。参加条件に「自称1989年以前生まれのVRCプレイヤー」を掲げているのであって、「NakaYoshikawaを好きになってくれる人」を掲げているわけではないので、たとえ告知やワールドの雰囲気という私の価値観が表れたものによりふるい分けがなされるとしても、それ以上のことを求めるべきではないと考えています。参加条件の射程を広くとっていることに伴う最低限の考慮すべきことだと思います。もちろん、結果的に私のことを好きになってくれる人がいれば嬉しいことですが、仮に私のことを苦手だと思う人であっても、Joinした後は私以外の人と楽しく過ごせるようにしたいです。また、これはほどよく放っておかれた状態で飲みたい私にとっても都合の良いことです。

これを読んでいる私以外の誰かは、私のことをインスタンスを立てるだけの人*6くらいに思って爆誕会に参加してもらえればと思っています。

*1:これは若い人を外国人、おじさんを日本人に置き換えると、VRC始めた当初の私の思いになります。方向性としては一緒の思い。

*2:最初はイベントカレンダーに載せるのも渋々でした。

*3:と曖昧な言い方にするのはそれが当人にとって不幸なのかはわからないため。周囲の人にとっては不幸になりがちな気はします。

*4:脱線し過ぎる懸念があるので本稿ではこれ以上触れませんが、「年相応であるべきか否か」という話と「不本意に場数を踏めないまま加齢してしまった人が場数を踏んでいくことができる場としてのVR」という話がそれぞれ別の話としてできると考えていて、私は前者の話については基本「否」であり、後者の話についてはVRの明るい可能性のひとつとして考えています。

*5:先日の定例飲み会の乾杯の時を思い出しつつ……。

*6:爆誕会での自分の役職名を「インスタンス設置人」にしようかと思ったくらいですが、何か責任を問われる事態があった場合に責任をとれる人がいるべきだと考え、「代表世話人」というそれっぽい名前にしました。

VRChatのオフ会をするということ

はじめに

2019年末から2020年初にかけて、VRChat(以下、VRC)での私のフレンドたちが多くオフ会をしているのをTwitterで見かけました。私も2019年末にオフ会に参加しています。そんな中、VRCのオフ会に関して、VRC開始当初から現在に至るまで私の中で大きく考えが変わってきたと感じているので一度それを整理しておきたいと思います。

VRCを始めた頃の考え

仮想空間でなりたい姿になって「かわいい、かわいい」と言い合っているのに、なんでその夢を壊すようなことをするのか、わけがわかりませんでした。つまり、VRCを始めた頃(2018年3月からしばらくの間)、私はVRCのオフ会をすることについて否定的でした。また、VRCで出会う人たちは思ったよりも若い人ばかりだったことがさらに私をオフ会から遠ざけました。若い男の子たちとは比べ物にならないくらい私というおじさんの基底現実における姿はVRCにおける姿からはかけ離れているのですから。

ちなみに、インターネット経由で知り合った人とオフ会をすること自体は、前世紀末から経験があり、あまり抵抗はありませんでした。ただ、思い返してみると、Twitterのオフ会については最初のうちは美少女アイコンで年齢・性別不明という振る舞いをしていた(今は完全に美少女アイコンを掲げてるだけのおっさんです)のでVRCを始めた頃と似たようなオフ会への忌避感はあったように思います。

今はどう考えているか

今(2020年1月)はTwitterのオフ会以上にVRCのオフ会は気楽になったように思います。その背景には、だんだんとVRの世界と基底現実の世界の差について「全然別ものの世界」(VRの世界は夢の世界)と感じていたところから「同じ世界を別の視点を通じてみている」と感じるようになってきたという感覚の変化があるのではないかと考えています。

前の記事と同じく『バーチャルリアリティ学』から引用しますが、

バーチャルは、「表層的にはそうではないが、本質的はそうである」という意味である。たとえば、『米国継承英語辞典(The American Heritage Dictionary)』の第3版では、バーチャルとは、「Existing in essence or effect though not in actual fact or form」と定義されている。つまり、「みかけや形はそのものではないが、本質あるいは効果としてはそのものであること」である。

バーチャルリアリティ学

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というような理屈はわかることができても、VRCがまさにバーチャルなリアリティだったということはVRCで長い時間をVRモードで過ごすことによって体得できたことだと思います。

前述の感覚の変化の後には、誰かと会う時、美少女アバターを使っていようが、おじさんアバター(その一種として私の生身の身体がある)を使っていようが、生身の身体がスーツを着ているかジャージを着ているかに似たようなもの、と感じるようになりました。また、生身の肉体はよくできたブレインマシンインターフェイスBrain-machine Interface)であり、オフ会会場はよくできたワールドのようなものだと感じるようになりました。「考える」ではなく敢えて「感じる」と書いたのは、SFや哲学の思考実験として可能性を考えることは時々してきたことですが、それに実感が伴うようになったのは私の場合はVRC体験以後だからです。

オフ会をする意味

私にとってVRCのオフ会とは普段とは異なるアバターを着て普段とは異なるワールドでいつものフレンドと会うことに過ぎないという捉え方になりつつあります。オフ会への抵抗が薄れてきたことはわかったが、VRCで会っても基底現実で会っても変わらないのなら、わざわざオフ会をする意味はないのではと思われる方もいるかもしれません。私は遠い未来には技術の進歩によりその通りになることを期待していますが、今のところは、VRCにはバーチャル度(本質あるいは効果としてはそのものであることの度合い)において不満足な点もあるため、オフ会でその点を補完していくことには当面の間意味があると考えています。ネットワーク遅延のない場所で、味や香りを共有しながら、一緒にお酒を飲む、ということができることが、今のところ私がVRCのオフ会に参加する理由です。

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オフ会の時の一枚。VRCの写真と変わらない感覚でTwitterに投稿するようになった。

 

 

アスタリスクのイトを読んで

アスタリスク花言葉」のおまけコンテンツ、「アスタリスクのイト」を読んだ私のひとこと感想です。「アスタリスクのイト」がどこにあるかはここには書けませんが、「アスタリスク花言葉」を終えた方ならきっとすぐわかるでしょう。

 これ以降、「アスタリスク花言葉」のネタバレを含む話となります。

最初にひとこと感想と書いた通り、さくさく書いていきますね。

まとまりとか結論みたいなものは特になく、引き出された考えを中心に。どんどん脱線・自分語りしますが、当ブログは基本的に私のメモ帳なので許してください。

  • バーチャル座禅
    アスタちゃんのVR睡眠のスタイルは確かに、自分ひとりしかいないインスタンスで己自身と向き合うという形であり、バーチャル座禅とも言えるものだと思いました。ここを読んでから少し上の「VRChatのワールドにおける「空」という要素」という言葉を見ると「あれ?仏教の本を読んでたのかな?」という気持ちになりますね。ヨツミさんの作品には本質という言葉が時々出てきますが、禅と本質といえば、井筒俊彦『意識と本質』では本質に関する2つの大きな考え方の1つに禅の考え方が挙げられています。
    以下の引用は9年ほど前の私の『意識と本質』感想文より。
    意識に現れる物事について、その物事をそれたらしめる「本質」はあるのか、ないのか。ここで大きく二つの考えに分かれる。一つは、「本質」非実在論で、もう一つは「本質」実在論だ。前者の代表格は禅であって、「本質」の介入を許さない無分節と分節との同時現成を説く。後者はさらに三つの型に分かれる。第一の型は中国宋代の理学に代表される普遍的「本質」の実在を信じる考え方。第二の型は密教ユダヤ教神秘主義カッバーラーに代表される「元型」(アーキタイプ)的「本質」の実在を信じる考え方。第三の型はイデア論や正名論に代表される普遍的「本質」の外的実在性を信じる考え方。

     

    意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)
     

     

    この本質という言葉は、VRバーチャルリアリティ)とは何かを語る時に欠かせないキーワードで、VR技術者認定試験の教科書であった『バーチャルリアリティ学』には以下のように書かれています。

    バーチャルは、「表層的にはそうではないが、本質的はそうである」という意味である。たとえば、『米国継承英語辞典(The American Heritage Dictionary)』の第3版では、バーチャルとは、「Existing in essence or effect though not in actual fact or form」と定義されている。つまり、「みかけや形はそのものではないが、本質あるいは効果としてはそのものであること」である。

     

    バーチャルリアリティ学

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    私は再び「本質とは何か」という問いに直面しました。

  • 現実・仮想・本質という言葉
    既に「本質」という言葉には言及しましたが、「現実」や「仮想」についてもVRをやればやるほどわからなくなってくる気がします。VR関連の話を聞いたり読んだりする時、その話の文脈における「現実」「仮想」「本質」という言葉の意味は何なのか……とずっと頭の片隅で考え続けています。

  • 指輪と喪失感
    フレンドが左手薬指に指輪を付けていて、その指輪でつながっている誰かを自分は知らない時、私も喪失感を覚えることがあります。私のヨツミさんへの姿勢は「遠くからそっと見守る」なので、そもそも知る由もないのですが、最初に見かけたときはちょっとショックでしたね。
    指輪に限らず、自分の所属していない団体のバッジを付けてたり、知らない人たちと遊んでたり、というのを見てもちょっとした喪失感を感じることはあって、ただ、私はそういう喪失感は基本面白がるというか、世界の広さを感じられて好きな感覚でもあります。時系列的にはまず「ショック~」がきて次に「おもしろ~」という感じです。

  • VR結婚という文化
    私の観測範囲ではVRC内でカップル成立するのを「お砂糖」(発端は知りませんが、カップル→甘い恋→お砂糖、みたいな連想はすぐに思いつきますね)と呼ぶことが多いと思います。そしてその関係が特別な友人、恋人、配偶者などのどれなのかは当人たちの報告(所謂「お砂糖報告」)でわかることがよくあります。
    その文化を何と呼ぶべきかはここで話したいことではないので措いておくとして、VRC内で恋愛的な関係に至るまでの人間の感じ方・考え方の変化や恋愛的な関係に至った後の人間の感じ方・考え方の変化、そしてそういう文化がある人間社会はどうなっていくのか、ということについては興味深いものだと私も考えています。また、これはVR結婚に限った話ではないですが、同時に、変わらないものは何なのかを確認することで、人間の本質(というものが仮にあるとして)に迫ることができるのではないかとも考えています。
    感情は生もので後から振り返っても当時の感情はわからなくなってしまいがちだし、VRCで初めて経験した感情だとすればなおさらそうだと思っているので、VRC内で恋愛をしている人たちはまずはローカルPC上でも構わないので日記をつける習慣を付けて、後々語り継げるようにしておいてもらえると助かるな……と個人的に思っています。

  • VR技術によってどこからでも帰れる場所があること(物理的距離からの解放)
    住みなれない場所で長く暮らさなければならない時に臨場感を伴って帰ることができる場所を得ることができつつあるというのはひとつの救いだと考えています。ヨツミさんのように海外で仕事をせざるを得ないという場合だけではなく、災害などで故郷を失ったり、難病で病院から出ることができなくなったりした場合であっても、バーチャル世界に帰る場所があればどれだけ救われるだろうかと思います。いまさら家庭とか地域社会を再建するよりは、そちらの方に救いを求めたいと私は考えています。

  • インターネット上の死
    ヨツミさんの言う「現実世界の死」と「インターネット上の死」は何が違うのかということを考えていました。死ぬ当事者からすれば前者は肉体の死であり、後者は「分人の死」とでも言うべきものかもしれません。非当事者からすれば、「死」を「その人との永遠の別れ」と捉えてみると、それほど違わないように思います。また、ひとつ上で家庭とか地域社会という言葉を出しましたが、それらが力を失っていく世の中では、基底現実での友人・知人であっても知らないうちに孤独死してしまって全然連絡がつかなくなって終わるということもあると思います。ただ、インターネット上の死は「なんとなく」で起こりがちだとは思います。インターネットの人格の命は現実世界の命に比べてとても儚いものです。
    私のフレンドの中にもいつの間にかインターネット上の死を迎えてしまったのではないかと思われる人たちがいます。私(VRCユーザのNakaYoshikawa)もいずれインターネット上の死を迎えるでしょう。今のところ私はしぶとく長生きしてやるつもりですが、将来の私のモチベーションはわからないですし、インターネットをできないほどの怪我をするかもしれません。それ(私がVRCユーザとして死ぬ時のこと)は昨年(2018年)から考えていることで、いつか私が二度とログインしなくなったVRCで私のことを覚えている人がいてくれたら墓参りをしてもらおうと思って自分の霊廟ワールドを作っています。まだまだ建設途中ですけど。

  • 45分のあいだ集中して「生放送」を見続けなくてはならなかった地獄
    楽しかったけど、「ヒントがあるかもしれない」と緊張感を維持しながらの45分はたしかに地獄でしたw

以上、「ひとこと」って何だっけ?という量になってしまいましたが、「アスタリスクのイト」の感想でした。

 

アスタリスクの花言葉の思い出

はじめに

9/28 21:00から11/3 22:20頃まで、途中台風による延期も含め1ヶ月以上かけてプレイ時間としては計15時間ほどで、VRChatのワールド「アスタリスク花言葉」(ヨツミフレームさんにより公開されました)を探索しました。すぐに感想を書くつもりだったんですが、基底現実とVRでのあれこれのイベントなどもあって、ようやくまとまった時間をとれたので、忘れないうちに(もう結構忘れていますが)感想を残しておきます。

 

あ、露骨なネタバレはしないつもりですが、ネタバレあり、としておきます。

探索に至るまで

私は「アスタリスク花言葉」以前からヨツミさんが好きで、と言ってもブログを読んだり遠くから眺めたりしているだけだったんですが、「アスタリスク花言葉」準備段階からその公開を楽しみにしていました。ヨツミさんの好きなところは、そのアバターや振る舞いのかわいさだけではなく、文章や作品によってバーチャルとは何だろうか、リアリティとは何だろうか、ということを考えさせてくれるところです。「アスタリスク花言葉」でもどんな問いを投げかけられてそれについて私たちは何を考えるのだろうかと楽しみにしていたのです。

 そんなに楽しみにしていたのになんで9/13 21:00の公開直後に行かなかったのか? それは私が他者とコミュニケーションをとりながら謎解きをすることを苦手としており、その上、公開直後のTLに飛び交う感想から「ずいぶんと難しそうだ。それに徹夜でインスタンスを維持しないといけないとすれば勤労おじさんには難しい」という印象を持ち、とはいえ、解き方や結末だけ誰かに教えてもらうというのも違うだろうと思い、行きたいが行けないという気持ちをしばらく温めていました。

やがて「アスタリスク花言葉」を最後まで体験した人々の感想が聞こえてくるようになります。あまり涙もろくなさそうな(実際はどうか知りませんが)フレンドが「泣いた。ぜひ行ってみてほしい」と勧めてくれたこと、インスタンスを維持し続けなくても何日間かに分けて最後まで体験した人たちの事例を知ることができたこと、そしてそんな時にTwitter上で特に仲の良い人たちが「アスタリスク花言葉に行ってみたい」という話をし始めたことで、「アスタリスク花言葉」探索を決意しました。

Twitter上で「何週間もかかるかもしれないけどゆっくりアスタリスク花言葉を探索します」的な告知をして、冒険者6名(大宮さん、のぞみさん、ショウジさん、lcamuさん、寝る前さん、私)+既クリアのガイド1名(senさん)が集まりました。私は問題集の解答ページをいきなり見ることは良しとしませんが、教科書(ここではヨツミさんのツイート群やブログ内容)で推奨されているやり方にはまず従ってみるタイプなので、最初からDiscordサーバを新規で作り(なんかその時の気分がウィザードリィの迷宮探索に臨むときの気持ちだったのでボルタック商店やカント寺院みたいなチャンネル名にしてました)、調整さんで1週間分の予定入力をさせ、9/28 21:00から第1回探索と決めたのでした。

探索を通じて思ったこと

全体を通じて

  • 行って良かったです。これは間違いない。じゃあ誰かに行くことを勧めるかというと……無差別に勧めることができるものではないと考えています。ただ、もしヨツミさんのブログを読むのが好きだったり、バーチャルやリアリティについてついつい考え込んでしまうような人であれば、つまり私の志望動機と同じものを持っている人であれば行ってみてほしいと思います。
  • 個々の濃淡はあれどある程度は知っている人たちで探索パーティを組んで正解でした。ハードな問題に複数人でコミュニケーションをとりながら取り組むとき、ただでさえしんどいのに、初対面の人とだとさらにしんどくなると思います。だとすると、メンバ集めの軸が私だったせいで、他の面子にはその面での負荷を強いてしまったかもしれないですね。
  • ワークショップ型の研修みたいだな、と思いました。これは基底現実の方で脱出ゲームに参加した時も思いましたけど。基底現実でのそういう研修とかゲームというのもある種のバーチャルリアリティだと思うんですが、現代のVR技術を使うことで格段に没入感を増すことができて、私のような少しひねくれた人間でも茶番感をあまり感じずに楽しむことができるようになるんじゃないかなと考えています。また、ワークショップ型の研修を会社やチームの一体感を高めるという方向で突き詰めた先にあるものの一つとして合宿型研修や社員旅行のようなものがあると考えており、「アスタリスク花言葉」での体験はそういったものが持つ効果も探索パーティメンバに及ぼしたのではないかと思っています。少なくとも私は「最高のメンバーだぜ!」と思って終えることができました。
  • 場所と思い出について考えることがあります。ある場所に立った時、その場所での経験が思い出されて、感傷に浸るということがあります。それは基本的には物理的に存在する場所で起こっていたはずですが、VRChatでも多くの時間を過ごすうちにそういう場所が少しずつできていきました。「アスタリスク花言葉」もそのひとつです。一連の探索が終わった後も、publicインスタンスの6部屋目でひとりぼんやり過ごしていることがあります。自分にとってのこういう場所がまたひとつできたことは嬉しいことです。

各部屋について

  • 1部屋目。そこはいつも雨。私一人なら一つのところにじっとしていないから、ここでもう無理になってたかも。
  • 2部屋目。ここに関してTwitterで落胆や失望を多く見かけた気がします。「なんでもありなんだ」という心構えができていたおかげでまずググるということができました。それでも最初は大宮さんの『不思議の国のアリス』あらすじ朗読会という面白い状況になっていました。
  • 3部屋目。解を出すためのロジックを考えるところまでは楽しくできたと思いますが、私一人だったら手先が不器用すぎて重ね合わせが無理だったと思います。最後の解を見つけるためのあれは模範解答では横に並べているのが衝撃でしたね。私たちは最初縦に頑張って並べていましたからね。なので砲台を回転させるみたいに数人がかりで各方向を向いていましたね。これも面白い状況だし、良い思い出です。
  • 4部屋目。私はハブの役割だったんであまり動かなかったですが、discord通話で色々想像を巡らせるのも面白かったです。諸々終わってから、実際に現地に行って遊びました。
  • 5部屋目。6部屋目への行き方まったくわからねーとなり、見かねたガイド役のsenさんが「2部屋目に来てくれたらヒントをお伝えします」と言ってくれたのですが、誰もそこに行かなかったのが面白かったです。
  • 6部屋目。ガチャガチャやってたら開いてしまったパティーン。こういう偶然性って私は面白いし大事にしたいと考えていて、100のインスタンスがあったら、100の歴史がそこにはできてくるのだと思います。それを共有する人はかけがえのない「歴史の証人」で、特に「アスタリスク花言葉」では大事な要素になると思います。
  • 7部屋目。またdiscord通話が活躍しました。ただ、ほぼ解が出かけたところで、謎のロック解除となり、たまたまJoinしてきたばかりの人を疑っちゃいました(friend onlyでインスタンス立ててたので探索メンバ以外も入れる)。ただ、たぶんインスタンスがちょっと壊れ気味だったんじゃないかと思っています。
  • 8部屋目。ここはガイド役のsenさんから「まず自力で解くことはできないだろう」と事前に言われていたんですが、初見メンバの自力でドアを開けることができたのは素晴らしいと思います。
  • 9部屋目。ここの感想に関しては、「アスタリスク花言葉」の思い出をどう語るのかに表すのが良いだろうと考えています。とても面白かったです。あの機能がちゃんと同期できるかどうかひそかにヒヤヒヤしていましたが(他のワールドで一人だけダメみたいなこと時々あったので)、なんとか同期したまま終われてよかったです。

おわりに

「探索が終わった」とは書きましたが、おそらくは私たちはまだ全てを見たり理解したりできてはいないのではないかと考えています。これには2つの意味があって、1つはヨツミさんの言動から察するに「アスタリスク花言葉」として公開された全てを私たちは見ることができてはいないのではないかということ、2つ目は「アスタリスク花言葉」を通じた私の思索にはまだまだ続きがあるだろうということです。

最後に、貴重な時間を割いて集まってくださった6名に改めて感謝を申し上げます。

 

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解散前に撮った1枚